1) 創業時代
(明治40年3月~)
日露戦争が終わり、船舶修理関係事業の隆盛が続いて、兵庫県相生村の村長で
あった唐端清太郎は相生湾が東西2kmの湾口から北に約4km湾入し、水深6m~8mに達する良湾で船舶修理に適していることに着目し、造船所設立を思い立った。
地元有力者および阪神財界の有志の協力を得て、明治 40(1907)年3月11日資本金50万円の播磨船渠株式会社を創立し、相生湾甲碕北岸に入渠能力6000総トンのドック建設を開始した。
創立当時の役員 | 取締役社長 | 小曾根貞松 |
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専務取締役 | 唐端清太郎 |
なかなかの難工事で進捗が遅れ完成直前の明治 42(1909)年10月に戸当たりの崩壊事故によりドックが水没、その後資金難の為しばらく放置されたままとなった。
藤田萬二、高橋為久等が明治 44(1911)年1月播磨船渠合名会社を設立して船渠の工事を続行し苦心の末明治 45(1912)年1月10日遂に完成した。
入渠可能トン数 | 6,000総トン |
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長さ | 440尺(約134m) |
幅 | 73尺(約22m) |
船渠完成後、高橋為久は神戸の八馬、辰馬、岡崎などの汽船会社と結んで
明治 45(1912)年6月2日、播磨造船株式会社(資本金50万円)を設立し
同社に事業一切を継承させた。
この時工場敷地は4,725坪(約15,600㎡)となり船舶修理工場の体裁が整った。
入渠第一号は岡崎汽船の「日英丸」(2,302総トン)、その後出資した汽船会社の船が次々と入渠することとなった。
日英丸
日英丸
大正 3(1914)年に船渠北方海面の一部埋め立てを行い工場敷地は6,745坪(22,300㎡)となったが汽船会社の修理事業主体では苦しい経営が続いた。