6) 戦後
(昭和20年9月~昭和34年)
終戦を迎え、全産業の機能は停止状態となりインフレの昂進、金融緊急措置令等経営は極めて困難な状況をであったが労使一体となって経営の合理化、能率の増進を計り、新規注文の獲得に努めた。
漁船、キャッチャーボート、小型客船及び鉄道連絡船等の受注に成功し漸く更生の曙光を認めるに至った。
宇高連絡船の「紫雲丸」(SNO.370)は昭和 22(1947)年6月に完成し、国民の食料不足を補う為の多数の捕鯨船や鰹鮪釣り漁船が昭和 24(1949)年にかけて建造された。
昭和 21(1946)年4月 政府の命により、呉海軍工廠の一部を借り受け当社の分工場として「呉船渠」を開設し、呉地区の覆没艦艇の救難解体作業を遂行し、指定起源の昭和 23(1948)年9月以降も当局の指示により一般商船の救難、船舶の修理等を実施した。
播磨造船所呉船渠開設 |
戦艦「伊勢」のサルベージ写真(昭和 21(1946)年) |
戦艦「伊勢」のサルベージ写真(昭和 21(1946)年) |
なお、史料館には航空母艦「天城」潜水艦「伊206」戦艦「榛名」「伊勢」等々多くの艦艇の救難解体写真が保管されている。
本社工場においては昭和 22(1947)年第一次計画造船の実施以来、
昭和 32(1957)年の第13次計画造船に至るまでに、貨物船及び油槽船合計27隻、290,440総トンを受注建造した。
昭和 23(1948)年11月スイスのスルザー・ブラザーズ社とディーゼル機関の製作権契約を結び第一号機として6TD36型900馬力を完成し、昭和 25(1950)年
3月に共栄タンカー向けSNO.451「共栄丸」に搭載した。
昭和 24(1949)年11月資本金を25,000万円に増資し翌年6月それまで社長であった横尾 龍が通産大臣に就任し社長を辞任したので後任に専務取締役であった
六岡周三が社長に就任する。
六岡 周三 |
昭和 25(1950)年6月朝鮮動乱の勃発により国際情勢は著しく緊迫化し世界各国の戦略物資備蓄輸入により海上荷動きの活発化により海運界は活況を極め、造船界も盛況を呈するに至り、戦後初の90%溶接船かつ最大タンカー
SNO,453「日栄丸」SNO.454「照国丸」を建造した。
太平洋戦争中爆撃により南洋トラック島の海底に沈んだ捕鯨母船の「図南丸」の引き揚げ工事を昭和 25(1950)年10月に開始し翌年3月に浮揚に成功、4月に相生へ曳航し大修復改造工事を行った。
本工事は半年の短期間で完成させ、その後南氷洋捕鯨で大いに活躍した。
図南丸の曳航 |
図南丸の完成出港 |
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また昭和 26(1951)年12月には出光興産向けにSNO.466「日章丸」を完成したが、これは出光佐三がメジャーオイルに対抗して独自に原油をイランより輸入する歴史的なタンカーとなった。
昭和 28(1953)年7月朝鮮動乱休戦の成立により海運造船界には不況が到来する。
局面打開の為に昭和 29(1954)年2月にニューヨーク事務所を開設し、昭和 30(1955)年7月にはロンドンに駐在員を置き海外船主からの受注に注力する体制をとった。
この頃よりデフレ政策の効果が漸く表れ始めると共に欧米諸国の景気回復により輸出が予想以上に伸展し船腹需要の拡大と共に造船界は未曽有の活況を呈し所謂「造船ブーム」で沸き立つに至った。
一方昭和 25(1950)年9月米国のナショナル・バルク・キャリアー社(NBC)が「呉船渠」使用設備中の造船地区を政府より買い受け、大型タンカーの建造に着手することとなるに及び「呉船渠」従業員の約半数の従業員はNBCに雇用されることとなった。
その後呉船渠は巡視船や防衛庁の運貨船等を建造する等実績を挙げたが、合理化の為に昭和 29(1954)年10月当社より分離独立させ資本金3億円の「株式会社呉造船所」を設立した。
なお、この呉造船所はその後、昭和 43(1968)年2月に石川島播磨重工業と合併することになる。
昭和 31(1956)年7月スエズ紛争が勃発し運河が閉鎖されるに及んで海運界は異常の活況を呈したが昭和 32(1957)年4月にスエズ運河は再開され海運市況は軟化した。
同年7月に資本金を40億円に増資すると共に、9月世界情勢に対応し迅速活発な受注活動を行う為に本社を相生市より東京都千代田区大手町に移転した。
一方、相生工場においては工場設備の近代化を一層推進し、総合事務所等の新築も行った。
現在のIHI相生事業所のある総合事務所は昭和32年9月に完成されたものであり、併せ大型コンピューター(ユニバック)を米国より導入した。
昭和 33(1958)年3月には船台拡張後の第1船としてSNO.517「海蔵丸」(33,000重量頓型タンカー)が同年9月には当時国内最大となる46,000載貨重量頓タンカー「剛邦丸」が進水した。
なお、本船は船台上で主機補器類を搭載・据え付けしたがこれは大型船としては初の試みである。
なお、この時期は福利厚生施設の充実も一段と図られた。
昭和 32(1957)年7月には現在のIHI相生事業所西門前広場に相生球場が完成しセパ両リーグの公式認定球場にもなり、同年10月には体育館が完成、翌年3月には独身寮の自彊寮が完成すると共に播磨病院第一期増築工事も完成した。
相生工場総合事務所 新築 昭和 32(1957)年9月 |