8) アイ・エイチ・アイ・アムテック時代 (平成2年4月~平成25年12月)
平成 2(1990)年4月2日(株)アイ・エイチ・アイ アムテック(IHI AMTEC)が
発足した。
AMTEC はAIOI MARINE TECHNOLOGYの略である。
石津 康二社長 |
昭和 62(1987)年の相生新造船撤退、第二次特別退職等により荒廃の中にあった相生地区において、全従業員と地元地域社会の期待を担ってIHIより分社化し発足したもので新会社の石津 康二社長は次のような経営理念を掲げた。
- 1.伝統に支えられた地場産業として地域社会の繁栄に貢献する。
- 2.IHI企業グループ内における主要な生産活動の一翼を担う。
- 3.経営基盤確立の為、独自製品の創出に努める。
- 4.機動力を十分に発揮した経営を行う。
- 5.生産活動を通じて獲得した技術の研鑽を努力する。
- 6.『人』を中心とした運営を行う。
新会社の経営は夫々成算をもった新造船関連ブロック(居住区一括、船首尾ブロック)、 作業船建造、修理船の3本柱でスタートし初年度は売り上げ103億円余りで2億円の営業利益をあげ、自主営業比率は10%であったが平成 3(1991)年から5(1993)年にかけては 自主営業比率を徐々に高め、平成 6(1994)年横浜工場修理部門統合時は相生工場だけで売り上げ135億円全社自主営業比率は30%を超えた。将来の事業展開に備え設備投資を行うと共にアルミ船事業への進出も図った。
平成 3(1991)年に東大宮田教授のSSTH船型の実験船として「とらいでんと」を建造した。「とらいでんと」は27ノットの双胴型高速船で淡路島の洲本と対岸の深日間に就航した。
本船は日本船舶海洋工学会より1992年度 Ship of the Yearを 受賞した。
SSTH30とらいでんと |
平成 4(1992)年には改良型盛土プラント船団「柏練号・柏盛号」を建造し東京湾アクア ライン海ほたる建設に従事した。
また平成 7(1995)年にはサンドコンパクション兼サンド ドレン船「第70光号」を建造するなどサンドコンパクション船、改良盛土プラント船、全旋回海上フロ-ティングクレ-ン船等の大型海洋土木関連の作業船等を建造し作業船建造の基盤を固めると共に自主営業比率を向上した。
改良盛土プラント船団「柏練号・柏盛号」 |
1600T全旋回フローティングクレーン船 神翔1600 |
平成 7(1995)年から8(1996)年にかけては横浜修理工場も軌道に乗り各事業共成果が表れ経営基盤を固めた。平成 3(1991)年にAMTECとして第一期生を採用してから年々若手社員も増え平成 8(1996)年7月にはAMTEC労働組合が結成され造船重機労連にも加盟した。 居住区壁用にコルゲートプレスラインの新設やSSTH-70の建造に備えアルミ船建造建屋整備等の設備投資を行った。
平成 8(1996)年秋に熊本フェリー殿向けに熊本新港と島原を結ぶ観光バス兼旅客運搬高速フェリーを受注し、念願のSSTH-70の建造が実現し平成 10(1998)年3月に引き渡した。 日本国内の超高速フェリーは数隻建造されたがいずれも比較的早期に廃止されたが、熊本フェリーは現在(2017年時点)も運行されている。
SSTH70 オーシャンアロー |
平成 10(1998)年12月には旧第3船台での11,000総トン以下の新造船建造許可を復活し新造船の建造が可能となり、日本中小型造船工業会にも加入した。
平成 11(1999)年6月石津社長の後を受けて菅野 彌社長が就任。経営環境の厳しい中、 ケーソンドック等の海洋土木関係をベースに風力発電タワー等を加え売り上げを確保した。
1300KW 風力発電タワー |
平成 13(2001)年1月経営対策を実施しIHI出向者全員AMTECへ移籍し
富澤 正毅社長就任。
同年には昭和 62(1987)年以来14年振りに海洋船台(旧第3船台)にて産業廃棄物運搬船
「全健丸」を進水させた。
産業廃棄物運搬船 全健丸 |
平成 14(2002)年2月に播磨造船所以来の皆勤橋が撤去され10月にはIHI船舶海洋事業本部が分社独立しIHIMUとして発足するのに伴いAMTECはIHIMUの100%子会社となる。
平成 16(2004)年9月に富澤社長の後を受けて山上 和政社長就任。AMTECの特性を生かし事業の柱を①居住区一括②船首尾曲がりブロック③修理船④高付加価値新造船の4本として事業基盤の確立と従業員・地域への貢献を目指した。
この頃より中国を中心としたBRICsの急速な経済発展を引き金に海上荷動き量は 増大し、新造船が大量に建造されるようになる一方で団塊の世代の大量退職をひかえ人材の逼迫が迫りつつ有った。また老朽化した設備への手当も喫緊の課題となっていた。
平成 17(2005)年に技能マスター制度をスタートしベテランから若手従業員への技能伝承を計ると共に技能訓練所を開設し従業員の教育訓練の促進を図った。平成 18(2006)年には因島に続き全国で2番目となる安全体験センターを開設し平成 20(2008)年には従業員だけでなく地域の技能レベル向上を目指し全国で6番目となる相生技能研修センターを開設した。
安全体験センターについても平成 24(2012)年8月より地域企業に対して安全体験研修を開始し平成 29(2017)年7月に通算1000人の受講生を記録した。
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高付加価値新造船としては平成 19(2007)年に海洋環境船第一船のDr.海洋を完成し以後白龍をはじめ通算5隻を建造した。
なお、Dr.海洋は2007年度日本船舶海洋工学会より特殊船部門 Ship of the Yearを受賞した。
海洋環境船Dr.海洋 |
平成 18(2006)年には居住区通算150隻、翌年にはバルバスバウ通算500隻を達成した。一方、居住区6隻分建造移動定盤の完成、PSPCを見越した塗装ブースの新設、バルバスバウ専門工場の整備、新型プラズマ切断機の導入、老朽化した
ショットラインの入れ替え等、設備への手当を平成 17(2005)年から
平成 21(2009)年にかけて行った。
1BD内居住区移動定盤 |
新型プラズマ切断機 |
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平成 16(2004)年から平成 20(2008)年の5年間売り上げは120億円前後で安定し自主営業比率は30%から50%へ向上した。
平成 21(2009)年9月宮田 光明が代表取締役社長に就任する。