7) 石川島播磨重工業
相生第一工場時代
(昭和35年12月~)
昭和 35(1960)年12月1日、石川島重工業株式会社と株式会社播磨造船所は合併し 石川島播磨重工業株式会社が誕生した。
六岡周三氏と土光敏夫氏による 合併調印式 |
新会社の取締役会長に六岡 周三播磨造船前社長が、取締役社長には土光敏夫
前社長が就任した。資本金102億円、従業員1万5千人からなる新会社は製品別
事業部制を採用し相生第一工場が船舶、相生第二工場が原動機・化工機生産部門となった。
合併時点では海運市況は低迷し造船事情は芳しくなかったが国民所得倍増計画を織り込んだ昭和 36(1961)年の第17次計画造船が実施され上向き状態となった。
営業・基本設計が一体となった活動によりギリシャ船主を始めとする外国船主からの受注を拡大した。
昭和 37(1962)年に土光社長が経済使節団の一員としてソビエトを訪れ大量の新造船契約を結んだが、これは播磨造船所時代に引き渡したタンカーの性能が高く評価された事も寄与し、合計10隻(1番船SNO.591 LISICHANSK)を建造した。
こうした活発な営業活動に加え、設備は大幅に変えずに設計・生産管理などの建造合理化により、相生第一工場は昭和 37(1962)年に年間進水量287,713総トンの記録を立て世界一の建造量の造船所となった。
昭和 37(1962)年頃の相生第一工場 |
昭和 38(1963)年以降は大型船の連続建造状態に入り昭和 39(1964)年10月に完成した日本郵船向け田島丸(SNO.632 89,962載貨重量トン)はユニット艤装、ブロック艤装等の先行艤装を徹底した結果、船台期間を従来の半分に近い66日に縮め起工から5か月弱で完成させた。
昭和 39(1964)年に田口連三社長が就任し、昭和 40(1965)年末頃から景気が持ち直し以後5年間に及ぶ“いざなぎ景気”が始まる。また昭和 40(1965)年米国のベトナム北爆開始、昭和 42(1967)年の第三次中東戦争により船舶不足が
生じると共に先進国の高度成長に伴い昭和 45(1970)年にかけて輸出船を中心に大量の新造船受注が続き第3次造船ブームと呼ばれた。
昭和 43(1968)年には三菱重工神戸建造の箱根丸と共に日本で第一世代のフルコンテナ船であるジャパンエース(SNO.2168)を完成させコンテナ船時代の幕開けとなった。
ジャパンエース |
造船の目覚ましい業績は国際的にも認識され、海外造船所からの技術支援要請が相次ぎ、台湾のTSBC社(後のCSBC)が10万DWTクラスのタンカーを建造するにあたり多くの技術者を相生に派遣し技術指導を受け同社の力は飛躍的に高まった。
昭和 45(1970)年9月に世界初の超自動化タンカー
「星光丸」(138,539重量トン)を完成させた。本船は人工衛星による船位測定、衝突予防、最適積み付け計算、機関トラブル応急処理、医療診断等、船の運航全般に渡ってコンピューターによる制御を行う本格的な自動化船である。
星光丸
星光丸
昭和 46(1971)年8月の米国大統領ニクソンの金・ドル交換停止に始まるニクソンショックにより為替相場は激変し、わが社はもとより造船業界に大きな打撃を与えたが昭和 47(1972)年秋からの世界的好況は海運業界に資源輸送の急増をもたらし、昭和 47(1972)年 48(1973)年の二年間、輸出船契約は年間2千万
総トンを超え造船業界は未曽有の活況となった。
昭和 47(1972)年には初のルーマニア向け8万6千重量トンタンカー4隻(SNO.2367~70)を建造した。
一方では日本列島改造論に代表される景気刺激策が世界各国でも取られ国際流通は増加したが一段の円高を引き金に物価は急騰しいわゆる狂乱物価が進行すると共に昭和 48(1973)年10月に始まった第4次中東戦争が産油国の結束と資源ナショナリズムを引き起こし昭和 49(1974)年1月OPECは1バレルあたり従来の5倍以上の約12ドルに値上げし所謂オイルショックが起こった。
オイルショックが始まった時点では造船業界は空前ともいうべきブームの真っただ中にあり昭和 49(1974)年度末には日本の造船手持ち工事量は5646万総トンと過去最高の記録を更新し約3年分の手持ち工事量有していた。
しかしその後受注は激減し既受注船もキャンセルや契約変更が相次ぎ手持ち工事量は急速に減少した。昭和 54(1979)年のイラン革命により原油供給不安が再燃し原油価格も第一次石油危機時更に2倍近い23.5$となり第二次石油危機の到来となる。
この頃から昭和 56(1981)年前半にかけて国際規則改正前の駆け込み発注などから投機的な新造発注が行われ造船ミニブームとなる。ニアルコス向け8万重量トンタンカー2隻受注を皮切りに受注事績を延ばした。
東一工場で主に建造して大ヒットとなったフリーダムやフォーチュン等のFシリーズを相生でも建造していたが、その中でも特に好実績のF32を更に競争力をつけるべく昭和 57(1982)年に基本設計も含め相生にてプロジェクトチームを作りF32Aを開発した。
Future32A |
昭和 56(1981)年のミニブームの終了と共に再び低迷するが昭和 58(1983)年から三光汽船のバルクキャリア大量発注により受注を伸ばすが昭和 60(1985)年の三光汽船倒産と共に終了する。 昭和 58(1983)年以降受注は激減し船舶海洋部門の人員組織再編を余儀なくされ昭和 59(1984)年船殻工作部と艤装工作部は船舶を建造する第一工作部とプラントや鉄鋼を製作する第2工作部に人員を分割することになった。
昭和 60(1985)年以降海運界は依然として過剰船腹の解消は進まず、深刻な不況が続き造船業界は構造不況の様相を強めた。
昭和 62(1987)年4月オープンハッチ型多目的貨物船「WESTWOOD JAGO」(SNO.2954)の進水を最後の進水式として、昭和 62(1987)年10月相生第一工場新造船部門は廃止されることになった。
WESTWOOD JAGO進水式 |
解散した相生第一工場は相生事業所所属の開発工作部と船舶事業本部所属の相生修理部に分割され開発工作部は作業船・鉄構物等の製作を相生修理部は引き続き船舶修理・改造を継続し、設計部門は愛知工場へ移る等大幅な緊急対策が実施され、相生第一工場はその長い歴史に幕を閉じることになった。