1) 吉田博絵画の発見から相生吉田博展の開催まで
1. アムテックにおける吉田博絵画の発見
平成2年(1990年)IHI造船部門であった相生第一工場が分社独立しIHIアムテックとなった際、構内の鷲ノ巣にあった旧IHI相生第一工場修理部事務所倉庫に12点の油彩画が保管されており、これらをアムテックへ移管した。
初代社長の石津は、サイン等から旧播磨造船所設計部OBの久我氏(進水記念絵葉書の作者)に相談し、また美術史辞典を調べた結果、吉田博なる画家が動員学徒を描いた作品であることを知った。
当時は今のようにネットが発達しておらずそれ以上のことは不明であった。粗末にならぬよう額縁を新調し一部は事務所ロビーに飾るなどしたが、その後12点はアムテック倉庫内に保管された。
2. 吉田博絵画の再認識
平成29年(2017年)にアムテック史料館で保存している造船関係資料(一般配置図、進水絵葉書、書籍類等)をデジタル化し船舶海洋工学会のホームページとリンクする一連の作業を推進(責任者第4代社長山上)した際、同年8月にデジタル化最終作業として12点の油彩画を撮影した。
同時期に、山上はネットで兵庫県立美術館が2016年9月発行した「アートランブル」VOL52に出原均氏が「1945年±5年」展の風景画」なる一文を書かれているのを読み、吉田博画伯が相生の播磨造船所で油槽船のスケッチを描いた旨が記載されている事に驚くと共に、早速連絡をとり同年9月兵庫県立美術館にて出原氏に面会することが出来た。
出原氏は学徒動員した学校に吉田博の絵が残っていないか確認しようとしていた所で、12点もの絵が本家本元のアムテックにあることに大変驚かれると共に、氏よりこれらの絵は大変貴重なものである事をご教示いただいた。将来のことを考えるとこれらの絵はこのままアムテックに保管するのではなく兵庫県立美術館で保管していただくのが最善と思いその旨相談した所、県立美術館への寄託という方法があることを教えていただき、一度地元の相生市民に展示した後、これらは寄託すべきと考えた。
また出原氏は吉田博のお孫様である吉田亜世美氏に連絡すると共に、吉田亜世美氏を紹介された。
一方、10月に入り相生在住の画家舟丘恵凡氏に、これらの絵を見ていただいた際にも、大変貴重な絵でありこのまま放置すべきではなく、まず地元の相生にて展示会を開くよう進言していただいた。
3. 吉田博絵画の追加発見
これに触発され同年10月にIHI相生総務部宮艸は3点の吉田博の油彩画を発見した。そのうち1点は額の裏に「昭和17年9月20」と書かれている。これらはアムテックの12点が動員学徒の労働風景を描いたものであるのに対し、造船所における船舶の増産風景を中心に描かれている。
翌年になり4月に吉田博展開催のフライヤーを相生市全戸に配布した折、播磨造船所幹部の家族から吉田博の絵画が保管されている旨連絡が有り、調べた結果合計6点の作品が所蔵されていることが分かり、これらも展示会に借用させていただくことができた。
一方、実行委員会メンバーの荻はネット検索を続け5月に入り姫路市の日ノ本学園にアムテック所蔵の絵の内の一枚とほぼ同一の絵が保管されていることを知り、訪問調査の結果これも借用させていただくこととなった。
4. 吉田博展開催へ
今回発見された作品は、いずれも昭和18年から20年にかけて描かれた油彩画で未発表であり、また吉田博の戦時中の作品はあまり残っていないことからも大変貴重なものであり、前述のように県立美術館へ寄託する前に多くの市民・県民に見て頂く為に地元相生市での展示会開催を平成29年11月に谷口相生市長に相談した。
谷口市長に心よく同意していただき、同年12 月に相生市役所、IHI、JMU アムテックの三者とOBである石津、山上のメンバーで吉田博展準備会を2回開催した。
平成30年1月12日に相生市文化会館「扶桑電通なぎさホール」にて第1回吉田博展実行委員会を開催し、石津氏に実行委員会長をやっていただくことになった。また吉田博展はIHI、JMUアムテック2社の主催で相生市に後援していただく形で進めることになった。
開催場所や時期も「扶桑電通なぎさホール」にて、平成30年6月21日から7月2日と決定した。
以降、月1回のペースで実行委員会を開催し、第一回時点では15点であった展示品も前述のように個人所蔵の作品提供申し出や、動員学徒の学校を調べて行く内に各所から展示作品が集まり個人・団体より貴重な油彩画5点と、版画3点も展示にご協力頂くことになり、併せて未発表の20点を含めた23点の作品が揃うこととなった。
また、3月には吉田亜世美氏に吉田博の相生での足跡がわかるものを展示したいが何かお持ちでないかご相談した所、ご多忙の中を160点以上のスケッチ帖の中から3点のスケッチ帖を相生のものではないかと画像データをお送り頂いた。
中を拝見するとまさしく播磨造船所でのスケッチが数多くあり驚くと共にこのハードコピーも展示させていただき好評を得た。
当初は11日間の展示で1,000人分の準備をしておけば十分と考えていたが、開催初日には吉田亜世美氏にも来場頂き、終わってみると短期間にもかかわらず1,539人もの方々に来場頂き、主催者として反響の大きさと、吉田博画伯の人気の高さをあらためて痛感させられた。
2)「相生 吉田博展その後」と続「相生 吉田博展その後」の発刊
1. 新たに発見された絵画の調査
展覧会は成功裏に閉会したが、吉田博展実行委員会のメンバーには、展覧会の為にいろいろ検討したが未解決な事があり、また吉田博は戦時中この播磨の地で一体どういう足跡をとってきたのだろうという疑問があった。
展覧会後、造船所に残された当時の建造線表や工場配置図、絵画中の山容や作業員の服装、吉田トラスト様から提供されたスケッチ帖等を参考にして、各絵画の作画場所や作画時期、絵画中の船舶や人物等の特定等に注力した。
また姫路、家島、岡山県金光等で新たに発見された絵画の調査、熱海での吉田博スケッチ帖の調査、加古川の元陸軍飛行場関連の調査等も行った。
2. 「相生 吉田博展その後」の発刊へ
上記調査により播磨造船所とその後継造船所に関わってきた者しか分らない事柄が多々発見された。
従来、戦時中の吉田博の動静には謎が多かったが、各絵画の追跡調査により相生を中心とした吉田博の足跡がほぼ明らかになった。また、動員学徒の絵画については、同じ絵を造船所に残して動員学校へ寄贈した事例が2件、造船所には残っていないが動員学校が保存する事例が1件発掘できた。
これらはこのまま終わらせるのではなく、世の中に少しでも知ってもらいたいとの思いから、次のメ ンバーで本として取り纏めることとし編集検討会を重ね、平成31年3月31日アムテック・史料館より発刊した。
吉田博展実行委員会 | 会長 | 石津 康二 (昭和33年播磨造船所入社) |
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委員 | 山上 和政 (昭和43年石川島播磨重工業入社) | |
荻 俊秀 (昭和49年石川島播磨重工業入社) | ||
宮艸 真木 (昭和49年石川島播磨重工業入社) | ||
水野 昌芳 (昭和60年石川島播磨重工業入社) |
この本は専門的な目でみると通常の美術関係誌とは異質な感を受けられるかもしれず、また「水辺の吉川」の吉川や加古川陸軍飛行場の件は、時間的や地理的環境を勘案して結論付けた仮説に過ぎないが、美術史に就いては門外漢の造船技術者OB達の試みとして、参考として頂ければとの思いで発刊したが、吉田亜世美様や出原均様から高い評価を戴いた。
3. 吉田 亜世美様宅における調査
「相生 吉田博展その後」出版後もいくつかの不明であった点の調査は継続していた。
スケッチ帖に残された時刻表のメモと戦時中の時刻表の調査から、廣畑における生産美術展が昭和18年ではなく昭和19年であることが判明した各展覧会への出品作品の調査では、昭和19年の太平洋画会展に長男の吉田遠志が「巨船竣工」を出品しており博と共に播磨造船所を訪れていた可能性も推測できた。
また遠志は昭和19年5月発行の月刊誌「政界往来」に戦時中の太平洋画会会員の絵画制作について投稿していたことが判った等、新たな発見があった。
また相生「吉田博展」における最大絵画であり昭和17年作と特定した「第7船台建造風景」の作成時期については、兵庫県立美術館の出原均様のご意見を伺いながら調査を継続していたが、平成31年4月吉田亜世美様からのご連絡で、ご自宅の資料箱の調査の結果、博の相生近辺のスケッチが200点余り発見されたことを知りこの確認が是非必要と認識した。
年が明け令和2年1月、出原様と山上でスケッチを確認に行くことになった。当日は亜世美様のご配慮により、元栃木県立美術館の小勝禮子様、大阪大学の北原恵様、東京都現代美術館の藤井亜紀様が参加され、亜世美様ほか5名による調査会となった。
テーブルの上に置かれた段ボールの箱の中には大量のスケッチ紙がびっしりと積み重なっており、それらは正に戦時中のスケッチであった。中には薄い紙もあり、注意しながら一枚一枚の内容を確認し、播磨造船所や家島関係、廣畑製鐵所関係、動員学徒関係、中国戦線関係等ジャンルごとに仕分けながら手分けして500 枚を超える画像データを撮る作業が夜まで続いた。
大量のスケッチから、博の足跡がより鮮明になることは確実で、撮影した画像データは持ち帰り分析することとなった
最も大量であった動員学徒のスケッチから播磨造船所に昭和19年に動員された動員校24校全てが描かれていたこと、各動員学徒が配属された職場は造船工程の全てに及んでいたこと、播磨造船所本社工場以外に日の浦工場や当時最高の軍事機密であった新鋭工場の松の浦工場も描かれていること、「やすり仕上げの女学生」の女学生は上郡高女ではなく相生国民学校であることなど新たな発見が続出した。
そして松の浦工場のスケッチ群は「第7船台建造風景」が実は「松の浦工場東船台」であることへも繋がってゆく。
4. 家島から吉田穂高が母のふじをへ宛てた葉書
3月に亜世美様から参考までにと二通の葉書データが山上宛送られてきた。亜世美様が探し物をして箱に戻し忘れた葉書がテーブルの上に残ったままで、目を通して見たところ、安積、相生、播磨造船・・・などの文字が読め、それらが亜世美様の父親の穂高から祖母のふじをへ宛てた葉書と分かり、相生に関係するので参考までにと送られたものである。
あらためて解読すると、博は当時、播磨造船所が受注し家島造船所で連続建造された戦時標準木造機 帆船の絵画制作で家島へ行っただけでなく、播磨造船所から依頼された大量の絵画制作の為にも、次男穂高を連れて行っていたことが分かり、それまで我々は家島へは相生・廣畑での絵画制作の疲れを癒す為に行っていたであろうと推測していたのが誤りであったことが分かった。
5. 続・相生『吉田博展』その後の発刊へ
3.で述べた新たに発見されたスケッチや4.に記した葉書から、「相生『吉田博展』その後」に記述した内容から変更もしくは追加すべき点が明らかになってきた。
これらの改正追加を折り込んだ第一回改正版としての発刊も考えたが、「相生『吉田博展』その後」は作成時点での我々の調査検討で最善と考えたものであり、その後の新たな資料の発見、検討により変更追加するのは、我々の調査の進展・成長過程としてご覧頂ければと思い、「続・相生『吉田博展』その後」として纏め「相生『吉田博展』その後」と同じメンバーで取り纏めアムテック・史料館より令和2年8月31日発刊した。